2018/04/16 21:26


全然話とは関係ない写真を、始まりの写真に!男子部3.4年のジュンスカ 。友達送別パーティ!トランジスタラジオをやってるねこれは多分。クラリネットとラッパを友達が吹いてるから。もう面白さが滲み出ている大好きな写真!


2017 8/1(火)に書いた。文を。


古河団地に住んでるから古川くんって、名前だと思うでしょ。

だって、俺も生活団幼稚園なんだから。4歳です。

ひばりが丘団地、に住んでて、そこから、自由学園生活団(幼稚園)へ通ってて、週に確か2回しか登校無いから、まあそりゃ楽しみで、逆言えば、他の日々が大変退屈で、家にいるの。

 昼寝なんてしたく無いでしょ。寝るけど寝ないで、も遊んでたいんだから。


で秋には体操会ってのがあって、歩いて通ってて、これまた早く行ってなにかがあるわけでいないのに、早く着きたい。かったんだろうね

いつも通る林があって、そこを道路じゃなくて、三角でススムと少し得した気分になる。

 

 俺たちの入ってった行ってた自由学園男子部には、いや男子部というか、自由学園の創立者、羽仁もと子、羽仁吉一、さんは本を沢山出してて、それを、小さい時は読み聞かせてもらい、それなりになったら、だんだん読んで、感想文を提出したりしてたんだけど、その中で、小さいなりに、強力に覚えてる話があって、まあここでは題だけ書いとくと、愚公山を移す。エバミノンダス。田舎者は勝つ、

とかね。

田舎者は勝つ!とか、わりとすごい題だ。


男子中学高校は雑司ヶ谷短信っていうのを読むんだけど。

ちなみに、創立者の墓が、今も雑司ヶ谷墓地にある。


当時(ここに書いてんのは、昭和の俺が在校してた時のことなんで、もちろん今と世の中の、うるささ、掟、寛大な目など、があったおかげのことであることを、お分かりの上、読んでください。)

命日、創立記念日には、生徒がそこに(雑司が谷墓地)集まり墓前礼拝ってのが、恒例だった。

これは、通常朝早く起きて、西武線で池袋まで行き、そこから歩いていくのがまあ、正規ルートなんだけど、

そこは

おもしろいことを、わざわざする、上級生がいて、スケボーが流行ってたから、それで池袋まで、行くって人がいたり、多いのは、夜中に寮を出て、歩いて雑司ヶ谷まで行く人が、正規では無い方の!主流だった。

 きっと今みたいに夜中の交通量も多くなく、少しくらい、線路を歩いたところで、「気をつけろよ!ぼうず!」(実際丸坊主が校則だったからね)(線路写真)

ってからかい、励ましの人はいたと思うけど、社会問題になんかなるわけ無い。俺の知る範囲では、とっ捕まった人とか聞いた覚えないけど。

 行きたいママの進路で。

間違いなく池袋に着くのは電車が車庫に帰ったあとの線路を歩いていこう!!


うすうす気づいていた大人もちろんいたはずで、まあそこも、よっしゃよっしゃだったんだろう。



ところで、幼稚園に行く途中の林ね。

たすきのような、引っ掛け紐が、斜めにかかってる、カバンをして突進して行ったら、あーあ

有刺鉄線があるとは知らず。そいえば最近見ないね。有刺鉄線。

とにかく右手から、突っ込んだ!!

「ざっくり」もちろん痛かったと思うけど、

それより、驚きと、手からなんか白いのが出てたことはハッキリ覚えてて、

あとは、号泣!!!!!!!!ビエーーーーーーーーん!!



母ちゃんが、持ってたタオルかハンカチで、傷を覆って、医者へGO!!電車でG0!!

歩いて。ひばりが丘の、藤原医院

人生初の縫う手術。先生ありがとう。助けていただきました。

今でもその抜糸した後の、傷を見ると。

「三角道をする人はワイロを取る!!」


ってそのその後何年も経って、ミスター羽仁(羽仁吉一先生をそういう風に学内では呼んでいた)、が雑司ヶ谷短信に書いた話を読んだ時「これって俺じゃん!!オレはワイロでではなく、右手に怪我だけど!」って思ったってことを書くために、ここまで文章の旅をしました。


ネットサーフィン、センテンスサーフィンてか。



生活団にいて、当時からの友達ももちろんいるし、

もう名前は覚えてるけど、全く会って無い人、そしてこの先も「会うことはないかな」そうだろうって人の方が、断然多いねおそらく。


きっとなんどかは、どっかで遭遇してることもあるだろけど、お互いわからないよ

特に女の人は、姓が変わってたりするしね。



愚公山を移すってのは、周りから怠けもののように、言われてる人が、どうせできるわけ無いって言われながらも、自分の力で大きな山を動かしたと。いう話だったはず


 今また読み返したいと、すごく思う自由学園創立者の羽仁先生の本。